早川?この人も早川にいると知った瞬間、弥生は一瞬動きを止めた。数秒後、彼女は思わずつぶやいた。「最近、偶然が多すぎるわね......」ここに来る前、弥生は早川が静かな街だと思っていた。ここで会社を立ち上げれば、昔の知り合いに頻繁に会うこともないだろうと考えていたのだ。しかし、現実は違った。ある人の顔が頭をよぎり、弥生はスマホを置いた。まあ、会っても大丈夫じゃないの?早川はそう広い街ではないし、彼女がこの街で事業をする以上、避けようがない。ましてや、彼が自分の会社に投資するとなれば、もう関係を切ることはできない。ただ、ビジネスの協力相手と割り切ればいいだけのことだ。そう思おうとしたものの、その夜、弥生はなかなか眠れなかった。ベッドの上で何度も寝返りを打ちながら、医師や健司が言っていた言葉が頭をよぎる。彼は深刻な胃病を抱え、薬を飲まずに放置している。なんて馬鹿げているんだろう。大人でありながら、ここまで自分の体を軽視するのはありえない。そんな状態で放置し続ければ、どうなるかくらい彼自身が一番わかっているはずなのに。だが、彼がそれでも放置しているということは、彼自身がその結果を受け入れる覚悟があるということだ。それなら、私が口を挟む必要なんてない。全く必要ない。もし誰かが彼を気にかけるとすれば、それは奈々の役目だろう。そう考えると、弥生はまた寝返りを打った。どうして健司は奈々に電話しないの?わざわざ私に?そんな思考が頭を巡り、さらに眠れなくなった。翌朝、アラームが鳴り響いた時、弥生はようやく体を起こした。強い意志力がなければ、ベッドから出ることさえ難しかっただろう。起きてからはいつも通り、子どもたちに朝食を準備し、一緒に食事をした後で学校に送る準備をした。彼女の元気がないのに気づいたお手伝いさんが心配そうに声をかけた。「霧島さん、昨晩よく眠れなかったんですか?少しお疲れのように見えますよ」その言葉に、弥生は苦笑しながら頷いた。「ええ、ちょっと眠れなくて」「そうでしたか」お手伝いさんはすぐに気を利かせて提案した。「少しお休みされてはいかがですか?子どもたちの送迎は私が代わりますから」その時、突然玄関のチャイムが鳴った。「私が行きますね」お手伝いさん
しかし、白い車がスピードを出し過ぎたため、うっかり黒い車の後部に接触してしまった。ほんの小さな擦れだったが、弥生はトラブルが始まるだろうと直感した。案の定、車が接触すると、両方の運転手とも車から降りてきて、駐車スペースの奪い合いや接触について言い争いを始めた。こういった光景は見慣れている弥生は、肩をすくめてその場を離れ、ビルの中に入った。エレベーターを待つ間、普段なら一人だけのことが多いが、今日は彼女のほかに何人かがエレベーター前で待っていた。その中の一人、眼鏡をかけた清潔感のある若い男性が、彼女の美しい外見と独特の雰囲気に惹かれたのか、思わず声をかけた。「こんにちは。ここに面接を受けに来たんですか?」その言葉を聞いて、弥生は一瞬驚いた。「えっ?私に話しかけていますか?」「そうです」男性は頷き、爽やかな笑顔で続けた。「とても綺麗ですね」こんな褒め言葉を日本で聞いたのは初めてだった。だが、彼の言葉にはいやらしさは全くなく、純粋で真摯なものだったため、弥生も思わず微笑みながら答えた。「ありがとうございます。面接に来ていたのですか?」「そうなんです」その話題になると、男性の目が輝いた。「この会社の求人票を見ました。宮崎グループが投資している小さな会社らしいですね。僕、以前宮崎グループに応募したけど落ちてしまって……それなら、この会社でもいいかなと思って来ました。宮崎グループが選んだ会社なら、きっと悪くないはずですから」その話を聞いて、弥生はようやく理解した。下の駐車場やエレベーターで人が多かった理由はこれだったのだ。彼らはみんな、昨日出された求人情報を見て面接に来たのだ。求人に関しては現在、博紀が担当している。昨日、彼に一任したばかりだが、すでに午後か夜には求人情報を公開したようだ。「私たちも面接に来ました!」話しを聞いていた他の数人が笑顔で話に加わった。「すみません、どんな職種を希望してるんですか?この会社、まだ小さいみたいで、ほとんどのポジションが空いてるようですね」一度会話が始まると、だんだん盛り上がり、みんなが次々と話し始めた。弥生は彼らの会話を横で静かに聞いていたが、エレベーターが目的の階に着くと、全員一緒に降りた。オフィスフロアに出た彼らは面接会場を探してあ
この点に関しては、弥生も否定のしようがなかった。そのため、頭の中に、今も病院のベッドに横たわる彼の姿が浮かんできた。しかし、その考えはすぐさま振り払った。もう彼のことを考えてはいけない。5年間も忘れる努力をしてきたのに、帰国した途端、また心が乱されるなんて許されない。彼女には彼女の人生のペースがあるのだから。その時、スマホが鳴った。画面を見ると、表示されていた名前は「駿人」だった。「福原さん?」「福原さん?彼がどうして社長に電話を?」「まさか、彼も......」「そこまではないと思う。電話に出るわ」博紀は頷き、気を利かせて部屋を出た。「もしもし、福原さん?」あの日、駿人の会社を後にしてから、弥生は彼と話していなかった。彼が自分の会社に投資しないと知った後、もうこれ以上時間を無駄にするつもりはなかったのだ。それでも早川での事業を成功させるため、駿人と無駄な争いを避けるべきだと思っていた。「やあ、最近会社はどう?先日のこと、すまなかったたね」「いえ、とんでもないです」「実は、僕の会社から直接投資はできないが、必要ならうちのスタッフを使って広告を作ることができるよ。どう?」益田グループの人材を使って広告を出すのは、確かに効果がありそうだった。弥生は感謝の意を込めて答えた。「お気遣いありがとうございます。しかし、もう問題は解決しました」「解決した?」彼女の会社がすでに投資を受けたと知り、駿人は驚いた。「どこの会社?」少し考えた後、弥生は正直に答えることにした。「宮崎グループです」「......あいつ、もう少し我慢すると思ってたけど、意外と早く降参したんだな」駿人のつぶやきに、弥生は反応しなかった。駿人はそのまま話を続けた。「霧島さんのことを追いかけるために、本当に手を尽くしたんだね」弥生は言葉に詰まったが、すぐに反論した。「福原さん。私たちはただのビジネスパートナーです。もう少し慎重に話していただけたらと思います」「本当にそれだけか?彼のことが嫌いなのか?」そう言ったかと思うと、彼女の返事を待たずに駿人は軽い調子で続けた。「もし彼がダメなら、僕はどう?」「......え?」弥生は一瞬驚いた。「冗談だよ。あいつの女に手を出すなんて、僕
「本当に申し訳ありません。社長が目を覚ましたら、ちゃんと説明します」健司はそう言ったが、医師は瑛介の自分の体を大事しない態度に怒りを覚え、つい口にした。「ちゃんと自分の体を大事にしないと、本当に死ぬかもしれもせんよ」その厳しい言葉に、健司は何も言い返せず、ただ小さく頷き続けるしかなかった。隣で見ていた弥生は、医師の反応から、瑛介の状態がかなり深刻であることを悟った。医師はさらに何かを健司に伝えた後、苛立った様子で病室を去った。健司はまるで捨てられた子犬のように肩を落とし、壁にもたれて項垂れていた。弥生はしばらくその場で立ち尽くしていたが、やがて彼のもとへ歩み寄った。気配に気づいた健司が顔を上げると、弥生は彼が目を赤くしているのに気づいた。医師の厳しい言葉に涙を浮かべたのか、それとも瑛介への心配からなのかは分からなかった。彼は気まずそうに顔を背けたが、弥生は黙って立ち、彼が気持ちを落ち着けるのを待った。数分後、健司はようやく振り向き、彼女に向き直った。「すみませんでした、霧島さん」彼が普段の表情を取り戻したのを見て、弥生は軽く頷き、彼の肩を軽く叩いて慰めるように言った。「彼はどこにいるの?」「先ほど救急処置が終わったと言われました」その言葉を聞いて、弥生はしばらく黙り込んだ。どう答えるべきか分からなかったのだ。数秒後、彼女はようやく言った。「一緒に行こうか」「分かりました」病室へ向かう道中、健司は彼女に何度も感謝の言葉を口にした。「本当にありがとうございます。来てくれなかったら、僕はどうすればいいか分かりませんでした」その言葉に、弥生は我慢できず口を開いた。「どうして私にだけ電話をかけてきたの?彼の家族は?」彼女は本当は「奈々」の名前を挙げたかったが、それを避けて曖昧に表現した。健司は気に留める様子もなく答えた。「以前も同じようなことがありました。でも、社長が家族の言うことを聞いていれば、こんな状態になるはずはありませんよ」「家族の言葉も聞かないの?」「誰の言葉も聞きません。それが一番困るんですよ」弥生は心の中で首をかしげた。あれだけ奈々を大事にしていたのに、彼女の言葉すら聞かないの?もし彼が奈々の言葉すら聞かないのなら、私の言葉なんて、なお
健司は何かを考えながら話していたため、弥生の異変にまだ気づいていなかった。彼女が足を止めたのを感じて、健司も立ち止まりながら話を続けた。「僕が言いたかったのは、おばあさまがご存命の頃は、社長の様子が今よりずっと良かったってことです。酒も飲むには飲むけど、おばあさまに会う前はしばらく禁酒して、体から酒の匂いを消していましたからね。おばあさまにばれないようにしていたんです。でも、おばあさまが亡くなってからは、もう誰も彼を抑えられなくなったんです」健司はたくさん話していた。しかし、弥生の耳にはその声が全く届いていなかった。一瞬のうちに、彼女の周囲から全ての音が消えたかのようだった。耳はまるで水の膜に包まれたかのようにぼんやりとしていて、かすかなモスキート音だけが響いていた。視界も次第にぼやけていき、最初は健司の口の動きが見えていたものの、最後にはそれすらも分からなくなった。「江口さんも前に社長を説得しようとしてましたけど、全然効果がなかったんですよ。社長は彼女の話を聞こうともしなかった。でも、霧島さんは別です。霧島さんの言うことなら」話の途中、突然背後で「ドサッ」という音がした。振り返った健司の目に飛び込んできたのは、地面に倒れ込んでいる弥生の姿だった。「霧島さん!!」慌てた彼は、倒れた弥生の体を抱き起こそうとしたが、彼女は完全に意識を失っており、どんなに呼びかけても反応がなかった。健司はすぐに彼女を抱き上げ、助けを求めに行った。瑛介が目を覚ました時、病室は静まり返っており、聞こえるのは病院の機器の音だけだった。彼はベッドに横たわったまま、自分の腕に再び針が刺さり、点滴が始まっていることに気づいた。その光景を見た瑛介の目には暗い影が差した。起き上がろうとした時、病室の外から声が聞こえた。「ゆっくり押して、ゆっくりだ」健司が看護師二人とともに病室に入ってきた。ベッドを押して運び込んでいるようだったが、瑛介の位置からはそのベッドに誰が横たわっているのか見えなかった。ただ、慌てふためいた健司の様子だけはしっかりと見えた。自分が病気で倒れているのに、なぜ他人にそんなに気を回しているんだ?しかも、まさか自分の病室に他人を連れてきたのか?そう思った途端、瑛介の顔色が一気に険しくなった。
「弥生は大丈夫じゃないだろう。起こしてくれ」瑛介は歯を食いしばり、彼を押さえつけた健司に力で抗った。健司はその力強さを感じ、最終的には諦めて瑛介を起こし、点滴の針が無事かどうか確認した後、点滴スタンドを持って瑛介を支えながら弥生のところまで連れて行った。昏睡状態の弥生は顔色が青白く、普段は鮮やかな赤みを帯びている唇も色を失っており、その姿はどこか儚げで、痛々しく見えた。その姿を目にした瞬間、瑛介の胸の奥が鋭い痛みで突き刺されたように感じた。薄い唇をわずかに動かしながら、彼は低い声で尋ねた。「どういうことだ?」健司も戸惑った様子で、少し焦りながら答えた。「私にもよく分からないんです。社長が吐血したことを霧島さんに伝えたら、病院に駆けつけてくれました。来た時は大丈夫そうに見えたんですが、突然倒れてしまって......」「医者は何て言っていた?」「医者は『驚きすぎたせいだろう』と言っていました。身体に異常はないので、とりあえず休ませて様子を見るようにと」驚きすぎた?瑛介の目が鋭く細まった。彼は、吐血したことを聞いて彼女が驚いたり心配して駆けつけてきたことは信じることができた。だが、それだけで倒れるほどになるものか?きっと何か別のことがあるはずだ。「ここに来る途中、他に何かあったか?」健司は首を傾げ、戸惑いながら答えた。「いや、特に何も。霧島さんが何か質問してきたので、それに答えていただけです」「どんな質問だ?」瑛介は眉をひそめ、その質問が原因である可能性を直感した。「彼女は何を聞いた?」「霧島さんが、社長の病状がどのくらい続いているのかを聞いたので、正直に答えました」「それだけか?」「はい、それだけです。他には特に何も......」健司は考え込みながら話を続けたが、途中で何かを思い出したように顔色を変えた。「社長......もしかしたら、霧島さんが倒れた理由、分かったかもしれません」「早く言え」瑛介は苛立ちながら促した。健司は唾を飲み込んで話を続けた。「それが......たぶん、かなり重大なことです」瑛介は彼を睨みつけながら不快感を露わにした。「もったいぶるな、さっさと言え」健司は躊躇しながらも、ついに口を開いた。「霧島さんが、社長の病状がど
「申し訳ございません」健司は弁解するように必死に話し続けた。「その時、あまり深く考えていませんでした。霧島さんが急に社長の状態について聞いてきたので、心配しているのだと思い、正直に答えただけで......」瑛介は荒い息をつきながら、鋭い怒りの眼差しを健司に向けた。怒りが頂点に達し、彼を殴り飛ばしたくなる衝動を必死に抑えた。おそらく、弥生が昏睡状態にあることを考え、無闇に大きな音を立てるのを避けたのだろう。瑛介は力強く健司の襟を放し、怒りを抑え込むような低い声で命じた。「出て行け」健司は出たい気持ちを抑えられなかったが、点滴を持っている手を見て、困ったように言った。「で、でも、これが......」その言葉を聞いた瑛介は、躊躇なく自分の手に刺さった針を抜こうと手を伸ばした。驚いた健司はすぐにその行動を止めようと、瑛介の手を押さえた。「社長、霧島さんが目を覚ましたとき、社長のことをもっと心配させるつもりですか?」その言葉に、瑛介は手の動きを止めた。「そもそも霧島さんは、社長のことを放っておこうと思っていたんです。でも、吐血したと聞いてここに駆けつけてきたんですよ。それなのに、社長は治療を拒否するんですか?」健司は徐々に大胆になり、続けた。「霧島さんが心配するかどうかはいいとしても、もし本当に体調を崩してしまったら、どうやって霧島さんを取り戻すつもりですか?」最後の一言を聞いた瑛介の目が危険なほどに鋭くなった。「説教でもするつもりか?」「いえ、いえ、とんでもありません。ただ、事実を申し上げただけです」健司の言葉には怒りが込められていたが、その内容は瑛介の心に深く響いた。最終的に、瑛介は怒りを露わにしながらも、針を抜くことを止め、健司が点滴を持ち続けることを許した。その後も、瑛介は弥生の病室から離れようとせず、健司が説得しても聞き入れなかった。仕方なく健司は、点滴を弥生のベッドサイドに設置し、そこに瑛介が横になれる椅子を用意した。「社長、ご自身の病室に戻らないのなら、ここで横になってください」そう言って彼は折りたたみ椅子を指差した。今度は瑛介も抵抗せず、その椅子に座った。完全に横にはならなかったものの、座ってくれただけでも健司は安心した。その後、瑛介はずっと弥生の側
「僕と離婚したから、もう祖母を家族だと思わなくなったのか?」もし本当にそうなら、むしろそのほうがいいと思った。気にしなければ、悲しむこともない。しかし、以前彼女がホテルに来て祖母の話を聞いてきたとき、瑛介は気づいていた。彼女はただ口では冷たくしているだけで、心の中では本当に祖母を気にかけていることを。そして今、彼女はその知らせを聞いて倒れてしまった。瑛介は、彼女が目を覚ました後にどうなるのか、考えるのも怖かった。今はまだ何も知らずに昏睡しているからいいが、目を覚ました後は......そう思うと、瑛介は無意識のうちに手を伸ばし、彼女の手首をそっと握った。時間が過ぎていく中、瑛介と健司は病室で静かに弥生を見守り続けた。どれだけの時間が経ったのか、弥生のバッグの中に入っていたスマホが突然鳴り出した。健司はすぐに立ち上がり、バッグを持って瑛介のもとへ持っていった。瑛介の手が不自由なのを見て、健司が慎重にバッグのジッパーを開け、中からスマホを取り出した。瑛介は画面の来電表示を一目見ただけで、顔を険しくした。「弘次」健司は、戸惑いながら提案した。「霧島さんがもし倒れて病院に運ばれていなければ、この時間ならもう帰宅しているはずです。家族の方が心配しているのでは?社長、電話に出て無事を伝えましょうか?」「必要ない」瑛介の声は冷たかった。「え?本当に出なくていいんですか?」瑛介は冷たい表情のまま、数秒間スマホを見つめた後、健司に命じた。「電源を切れ」「で、でも......」瑛介の険しい表情と発着信履歴の名前を見比べて、健司は大体の事情を察した。「これって、社長のライバルなんじゃ......」彼は最終的に躊躇しながらもスマホをオフにした。一方、弘次は弥生の電話に何度もかけたが、一向に繋がらなかった。ようやく自動で通話が切れた後、再びかけ直すと今度は電源が切れているという音声が返ってきた。その瞬間、弘次の黒い瞳に陰りが差し、車を路肩に停めた。暫く考え込んだ後、彼はもう一人に電話をかけた。「これから学校に子どもたちを迎えに行く。その間に、彼女がどこにいるか調べておいてくれ。子どもたちを迎えに行くまでに、場所を教えてほしい」そう言い放つと、弘次は電話を切り、車を学校へと
瑛介が返事をしないまま沈黙していると、綾人が再び口を開いた。「弥生は、まだ意識が戻ってないんだろ?」その言葉に、ようやく瑛介は反応し、冷たく答えた。「問題ない。あの二人は頭がいいから」彼がその場にいなくても、あの二人ならきっと対応できる。特に陽平なら、母親の面倒をしっかり見られるはずだ。「とはいえ、あの子たちはまだ若いんだ」綾人は言った。「もし何かあったら......」「僕がここで見てるから」瑛介が鋭く遮った。「......分かったよ」「ここにはもうお前は必要ない。帰っていい」綾人は、今の瑛介の態度を見て、これ以上話をしても無駄だと感じた。それでも彼は少しだけ考えた末、もうそれ以上何も言わずに、廊下のベンチに向かい、静かに腰を下ろした。瑛介は病室の外で壁にもたれ、スマホを取り出して健司に電話をかけた。通話が終わり、スマホをポケットにしまおうとした瞬間、何かを思い出して顔色が変わった。すぐさま振り返り、病室のドアを勢いよく開けた。彼が目にしたのは、二人の子供が寄り添い合いながら、弥生のスマホを手にして電話をかけようとしている姿だった。音に気づいた二人は、同時に顔を上げて瑛介の方を見た。その姿を見たひなのは、すぐに嫌そうな顔になり、唇を尖らせて彼に近づき、また追い出そうとした。でも、瑛介はすぐに大股で近づき、二人の目の前でしゃがみ込んだ。「スマホ、何に使おうとしてた?」陽平は唇をきゅっと引き結び、何も答えなかった。代わりにひなのが腰に手を当て、不満げに言った。「おじさん、ノックもしないで勝手に入ってきて!邪魔しないでよ!」瑛介は今、それに構っている余裕はなかった。彼の注意は、陽平の手にあるスマホに完全に向いていた。彼は手を差し出して言った。「スマホをおじさんに貸してくれるか?」陽平はスマホを後ろに隠しながら言った。「ママのスマホだ。おじさんのじゃない」「もちろん、それは分かってる」瑛介はにこりと笑って言った。「でもママは今寝てるだろ?一応おじさんが預かっておいた方がいい。もし落としたら壊れるかもしれないからね」ひなのがすかさず反論した。「そんなことないもん!私もお兄ちゃんも、スマホ一回も落としたことない!」「そうなんだ」瑛介はひなの
瑛介は聡のことを簡単に許すつもりはなかった。その言い方に滲み出る怒りを、綾人も敏感に察したらしく、わずかに苦笑を浮かべながら口を開いた。「今夜のことは、正直ここまでになるとは思わなかった。でももうこうなった以上......弥生の様子は?」瑛介は唇を引き結び、返事をしなかった。明らかに、綾人を無視するつもりだった。綾人もそれを察して、それ以上は何も言わず、静かに椅子に座った。しばらく沈黙が続いた後、瑛介が不意に言った。「お前、ここにいなくていい」「黙ってここにいるだけでもダメか?」「ダメだ」「......それはあんまりじゃないか」「僕はあんまりな人間だ」そう言われてしまっては、綾人にもどうしようもなかった。だが彼はそれでも席を立たず、ただ座っていた。しばらくして、まるで何かに触発されたかのように、瑛介が顔をこちらに向けた。鋭く暗い目で綾人を睨みつけ、低く言った。「僕に手を出させたいのか?」もしここに子どもたちがいなければ、瑛介はとっくに彼の襟元をつかんで、別の場所に連れ出していただろう。「そうか?なら試してみろよ」「僕がやらないとでも思ってるのか?」と、彼は静かな口調に鋭い響きを込めて言った。ちょうどその時、救急室のランプがふっと消え、に扉がゆっくりと開いた。さっきまで怒気に満ちていた瑛介は表情を一変させて立ち上がり、ドアの方へ向かった。一緒にいたひなのと陽平も、すぐに立ち上がって、駆けて行った。綾人もそれを見て、立ち上がり、彼らの後を追った。「先生、どうですか?」瑛介の声は、さっきまでの冷たさとは違い、少しだけ柔らかくなっていた。だが、抑えた低音が静まり返った廊下に響くと、どこかしら掠れて聞こえた。医師は数人を見渡した後、こう尋ねた。「どなたが霧島さんのご家族ですか?」「僕です」瑛介が答えた。「そうですか。患者さんは頭部に外傷を負っていますが、今のところ大きな問題はなさそうです。ただ、今後さらに検査が必要です」「......さらなる検査?」その言葉を聞いた瞬間、瑛介の目つきは一段と鋭さを増し、喉の奥で「聡」という名前を噛み砕くような、激しい怒りがこみ上げてきた。「今の状態は?」「現在は安定しています。ただ、頭部を傷めているため、しば
正直なところ、それで行けるのだ。なぜなら、ひなのは瑛介の言葉を聞いて手を上げてみたところ、確かに脚よりも叩きやすかったからだ。さっき瑛介が椅子に座っていたときは、彼の脚に手が届くように一生懸命つま先立ちしないといけなかった。でも今は、彼が自ら頭を下げているから、まったく力を使わなくても簡単に手が届く。ただ、目の前にいる瑛介の顔は、近くで見ると目がとても深くて黒く、表情も鋭くて、少し怖い。ひなのはその顔を見て、急に手を出すのが怖くなった。おそるおそる彼の顔を見たあと、一歩後ずさった。その小さな仕草も、瑛介にははっきり見えていた。「どうした?」ひなのは唇を尖らせて言った。「もし、おじさんが叩き返してきたらどうするの?」手も大きいし、もし本気で叩かれたりしたら、自分なんてきっと一発でペチャンコにされちゃう——そんなことを考えれば考えるほど、ひなのは怖くなってしまい、くるりと背を向けるなり一目散にお兄ちゃんのところへ駆け出していった。瑛介は完全に顔を叩かれる覚悟までしていたのに、まさか彼女が急に逃げ出すとは思ってもいなかった。ホッとした気持ちとともに、なぜか少しばかりのがっかり感がこみ上げてくる。娘に頬を叩かれるって、どんな感じなんだろう?そんなことを考える自分に、思わず苦笑してしまう。いやいや、何を考えてるんだ。叩かれて喜ぶなんて、自分はマゾかとさえ思い、頭を振って気を引き締めた。雑念を払って、救急室の扉を真剣に見守ることに集中することにした。弥生は無事でさえいてくれたら、それだけで十分だった。一方、ひなのが陽平のもとへ駆け戻ると、陽平は大人のように彼女を椅子に座らせ、優しく涙を拭ってあげた。その後、彼もつい瑛介の方を一瞥した。静かに目を伏せている彼の姿は、あれほど背が高いのに、どこかひどく寂しげに見えた。陽平は唇をきゅっと結び、小声で言った。「ひなの、これからはあのおじさんに近づいちゃだめだよ」以前は、寂しい夜さんをパパにしたい!とまで言っていたひなのだったが、今はすっかり気持ちが変わったようで、力強くうなずいた。「うんうん、お兄ちゃんの言うこと聞く!」陽平は、ようやく妹がもうあの人をパパだなんて言い出さないことに安心した。これなら、ママも安心してくれるはずだ
さらに、泣きすぎて目を真っ赤にした二人の子供もいた。それを見て、警察官たちは事態を即座に理解し、真剣な表情で言った。「こちらへどうぞ、ご案内しますので」その後、警察は自ら先導して道を開け、近隣の病院へ事前連絡までしてくれた。パトカーの支援を受けたことで、ようやく車は予定より早く病院へ到着した。車が止まると同時に、瑛介は弥生を抱きかかえて一目散に病院内へ駆け込んだ。二人の小さな子供も、必死について走ってきた。その後の処置の末、弥生はようやく救急室へと運ばれた。救急室には家族であっても入れない。瑛介は二人の子供と一緒に、外で待つしかなかった。今は周囲に誰もおらず、救急室の前の廊下も静まり返っている。瑛介は陽平とひなのを自分のそばに座らせた。「しばらくかかるかもしれない。ここで待とう」陽平はとても聞き分けがよく、何も言わず、ただ静かにうなずいた。けれど、瑛介のすぐそばには座らず、少し離れた場所に腰を下ろした。彼が何を思っているのか、瑛介には分かっていた。しかし、その位置からなら様子を見ていられるし、安全も確保できるので、強くは言わなかった。一方で、ひなのは自ら彼のもとへ歩み寄ってきた。瑛介は一瞬驚いた。もしかして許してくれたのかと思ったが、彼女は彼の前に来るや否や、小さな拳で彼の太ももをポカポカと叩き始めた。「ひなのはあなたが大嫌い!」ぷくぷくした小さな手が絶え間なく彼の脚を叩きつづけた。泣きじゃくりながら怒るひなのは、まるで花がしおれたような子猫を思わせ、瑛介の胸をきゅっと締めつけた。彼は黙ったまま動かず、叩かせるがままにしていた。やがて、ひなのが疲れてきたのを見て、瑛介はそっと彼女の手を握った。「もう、疲れたろう?ね、もうやめよう」ひなのは力いっぱい手を引こうとしたが、離せずにぷくっとした声で怒った。「放してよ!おじさん大嫌いなんだから!」瑛介は彼女の顔を見て、困ったように言った。「じゃあ、おじさんと約束しよう。もう叩かないって言ってくれたら、すぐ放すよ」その言葉を聞いて、ひなのはわあっと再び泣き出し、ぽろぽろと涙を流した。「おじさんは悪い人!ママをこんな目にあわせたくせに、ひなのに叩かせないなんて!」その姿に、瑛介はまたもや言葉を失った。か
陽平はもうそうするしかなかった「うん、任せて」「よし、それじゃあ君とひなのでママを頼むね。病院に連れて行くから」「うん」瑛介は陽平の返事を聞いてから、視線を弥生の顔へと戻した。その額の血は、彼女の白い肌に際立ち、ぞっとするほど鮮やかだった。瑛介は慎重に彼女をシートに寝かせ、座席の位置を調整した。そして、二人の子どもを左右に座らせ、走行中に彼女がずれ落ちないよう、しっかり支えるよう指示した。すべての準備が整った後、瑛介は車から降りた。ドアが閉まった音と同時に、陽平は目尻の涙を拭い、弥生の頭を優しく支えながら、小さく囁いた。「ママ、大丈夫だから。絶対に助かるよ」ひなのも泣き疲れていた。先ほどまでキラキラしていた瞳は、今や涙でいっぱいになり、大粒の涙がポロポロと弥生の足元にこぼれ落ちていった。「ひなの、もう泣かないで」隣から陽平の声が聞こえた。その声に、ひなのは涙に濡れた目を上げた。「でも......ママは死んじゃうの......?」その言葉に、陽平は強く反応した。彼は驚いて妹の顔を見つめ、目つきが変わった。「そんなこと言っちゃダメだ!」ひなのはビクッと震えて、しゃくりあげた。「でも......」「ママはちょっとおでこをケガしただけ!絶対に死なないから!」車は大通りに入った。瑛介の運転はスピードこそ速かったが、ハンドルさばきは安定していた。バックミラー越しに見える二人の子どもが、必死に弥生を守っているのが分かり、その声が耳に届くたび、彼の胸が裂けるように痛んだ。彼は眉をひそめ、重い口調で言った。「陽平、ひなの......絶対に君たちのママを助ける。信じてくれ」その最後の「信じてくれ」は、絞り出すような声だった。陽平は黙ったまま、弥生の血の滲んだ額を見下ろし、顔をしかめていた。その時、ひなのがぽつりと不満げに言った。「ひなのはおじさんのことが嫌い」その言葉に、瑛介のハンドルを握る手が一瞬止まった。しばらくの沈黙の後、彼は苦笑しながら言った。「嫌われてもいい。まずは病院に行こう」ママがこんな状態なのに、娘に好かれる資格なんてあるはずがない。すぐそばにいたのに、大切な人を守ることができなかった。娘まで危険な目に遭わせてしまった。その罪悪感は、今まで
奈々は自分の下唇を噛みしめ、何か言いたげに口を開いた。「でも......ここまで騒ぎになったんだし、私にも責任があると思うの。私も一緒に行って、弥生の様子を見てきた方が......」「確かに、今回の件は僕たちにも責任がある」綾人はそう言って彼女の言葉を遮った。「でも今の瑛介は、おそらく怒りで冷静じゃない。だから、君はついてこない方がいい」そう言い終えると、綾人は奈々をじっと見つめた。その視線は、まるで彼女の中身まで見抜いたかのような鋭さだった。一瞬で、奈々は何も言えなくなった。「......そう、分かったわ。でも、後で何かあったら必ず私に連絡してね。五年間会っていなかったとはいえ、私はやっぱり弥生のことが心配なの」綾人は軽くうなずき、それ以上何も言わずに携帯を手にしてその場を離れた。彼が完全に視界から消えたのを確認した後、奈々は素早くその場で向きを変え、聡のもとへと駆け寄って、彼を助け起こした。「さあ、早く立って」奈々が突然駆け寄ってきたことに、聡は驚きつつも喜びを隠せなかった。「奈々、ごめんない......」「立ち上がって話しましょう」奈々の支えを受けて、聡はようやくゆっくりと立ち上がることができた。彼が完全に立ち上がったのを確認してから、奈々は彼の様子を気遣うように尋ねた。「体は大丈夫?」聡は首を振ったが、何も言わず、ただ呆然と彼女を見つめていた。「そんなふうに見つめないでよ。さっき私が言ったことは、全部君のためだったのよ」「俺のため?」「そうよ。よく考えてみて。今夜君があんな場で暴力を振るったら、周りの人たちは君をどう見ると思う?そんな中で私が君の味方についたら、どうなると思う?君の人柄が疑われて、私まで巻き添えになるかもしれないでしょ?だから私は、あえて君を叱るフリをしたの。がっかりしたフリをして、君が反省したように見せれば、誰も君を責めないわ」「反省したフリ?」その言葉に、聡は少し混乱した。彼は本当に反省していた。あの暴力的な行動を自分自身で恥じ、変わろうと思っていた。でも今の奈々の言葉は、それとは違う意図に聞こえる。......とはいえ、奈々は美しく、優しい。彼女がそんな策略を考えるような人だなんて、彼には到底信じられなかった。最後に、聡は素直
彼は弥生の額から血が流れていたのを見たような気がする。しかも、自分は子供を蹴ろうとした?自分はいったい、どうしてしまったのか?そんな思考が渦巻く中、綾人が彼の前に立ち、冷たい目で見下ろした。「聡、正気だったのか?何をしたか分かってるのか?」「俺は......」聡は否定しようとしたが、脳裏には弥生の額から血が滲むあの光景が蘇り、一言も出てこなかった。ようやく、自分の行動がどれだけ非常識だったかに気づいた。しかし......彼は奈々の方へ目を向けた。せめて彼女だけでも、自分の味方でいてくれないかと願っていた。そもそも、彼がこんなことをしたのはすべて奈々のためだったのだから。奈々の心臓はドクンドクンと高鳴り、心の奥では弥生に何かあればいいのにとすら思っていた。だが、綾人の言葉を聞いた後、その邪な思いを慌てて胸の奥にしまい込み、失望した表情で聡を見つめた。「手を出すなんて、君はやりすぎたわ」ここで奈々は一旦言葉を止め、また口を開いた。「それに、相手は子供よ。ほんの少しの思いやりもないの?」聡は頭が真っ白になり、しばらく口を開けたまま固まった。ようやく声を出せたのは数秒後だった。「だって......全部君のためだったんだ!」もし奈々のためじゃなかったら、自分がこんなにも取り乱すはずがない。弥生とその子供たちに、彼には何の恨みもなかった。彼が彼女たちを攻撃する理由なんて、どこにもなかったのだ。その言葉を聞いた奈々の表情は、さらに失望に満ちたものとなった。「感情に流されてやったことなら、まだしも少しは理解できたかもしれない。でも、『私のため』ですって?そんなこと、人前で言わないでよ!まるで私が子どもを傷つけさせたみたいじゃないの!」「今日まで、私はあの子供たちの存在すら知らなかった。弥生がここに来るなんて、私には想像もできなかったのよ」奈々がこれを言ったのには、明確な意図があった。綾人は瑛介の最も信頼する友人であり、もし聡の言葉が綾人に悪印象を与えたら、今後彼に協力を求めることが難しくなる。だから奈々は、普段どれだけ聡に助けられていても、今この場面では彼を切り捨てるしかなかった。どうせ聡は、彼女にとってはいつも都合のいい人でしかない。あとで少し優しくすれば、また戻ってくる。
そこで、まさかのことが起きた。弥生のそばを通り過ぎるとき、突然聡が何を思ったのか、彼女の腕を乱暴に掴んできたのだった。「ちょっと待って。本当に関係ないなら、子供を二人も連れてここに来るなんて、おかしいだろう!」弥生がもっとも嫌うのは、事実無根の中傷だった。そして今の聡の言葉は、まさに彼女に対する侮辱だった。弥生の目つきが一瞬で冷たくなり、皮肉な笑みを浮かべながら言った。「ねえ聡、瑛介と奈々っていつもカップルに見えるの?」ちょうど近づいてこようとしていた瑛介は、この言葉を耳にして足を止め、弥生の後頭部を鋭く見つめた。この問いかけは、一体どういう意味だ?「もちろんだ!」聡は歯を食いしばりながら怒鳴った。「奈々の方があんたなんかより何倍もいい女だ!瑛介にふさわしいのは、彼女しかいないんだよ!」「じゃあつまり、二人はカップルに見えるのに、あなたは奈々を今でも想ってるってことね?」聡は一瞬言葉に詰まり、予想外の展開に呆然とした。弥生はそんな彼を見つめ、嘲笑を浮かべながら口元を引き上げた。「あなたに私を非難する資格あると思うの?」その言葉の鋭さに、聡は言い返すこともできず、ただその場に立ち尽くしてしまった。ようやく我に返った時には、弥生はもう彼の手を振り払って前へ進んでいた。慌てた聡は奈々の方を振り向いて言った。「奈々......」だが、返ってきたのは、奈々のどこか責めるような、そして複雑な感情を秘めた視線だった。その視線に、聡のこころは一気に締めつけられた。まずい、弥生の言ったこと、奈々の心に残ってしまったかもしれない。もしかしたら、もう自分を近づけてくれなくなるかもしれない。そう思った瞬間、聡の中で沸き上がったのは、弥生への怒りだった。全部、彼女のせいだ。彼女が余計なことを言わなければ、奈々のそばにいられるチャンスはまだあったのに。「待て!」聡はそう叫ぶと、弥生に再び近づき、肩を掴もうとした。その瞬間、弥生に連れられていたひなのが、眉をひそめて前に飛び出し、両手を広げて彼を止めようとした。「ママにもう触らないで!」その顔は瑛介にとてもよく似ていて、それでいて弥生の面影も強く感じられる顔だった。その顔を見た瞬間、聡は怒りが爆発し、反射的に足を振り上げた。「どけ!ガキ
母の言う通りだった。あの言葉を口にしてから、瑛介は確かに彼女に対する警戒を解いた。かつて命を救ってくれた恩がある以上、奈々は依然として特別な存在だった。そして弥生は既に遠くへ行ってしまっていた。五年もの時間があった。その機会さえ掴めば、再び瑛介の傍に戻ることは決して不可能ではなかったのだ。ただ、まさか瑛介が五年の歳月を経ても、気持ちを変えることなく、彼女に対して終始友人として接し続けるとは思いもしなかった。一度でもその線を越えようとすると、彼は容赦なく拒絶してくる。だから奈々はいつも、退いてから進むという戦術を取るしかなかった。「奈々?」聡の声が、奈々の意識を現実へと引き戻した。我に返った奈々の目の前には、肩を握って心配そうに見つめる聡の姿があった。「一体どうしたんだ?瑛介と何を話した?」その問いに奈々は唇を引き結び、聡の手を振り払って黙り込んだ。皆の前で、自分が瑛介と「友達」だと認めさせられると教えるの?そんなこと絶対に言えない。友達の立場は、自分にもう少しチャンスが残されることを願ってのことだ。ただの友達になりたいなんて、そんなの本心じゃなかった。「僕と奈々の間には、何もないから」彼女が迷っている間に、瑛介は弥生の方を向き、真剣な顔でそう言った。奈々は目を見開き、その光景に言葉を失った。唇を噛みしめすぎて、今にも血が出そうだった。あの五年間、彼は何にも興味を持たなかったはずなのに、今は弥生に対してこんなにも必死に説明しているのは想像できなかった。弥生は眉をひそめた。もし最初の言葉だけだったなら聞き流せたかもしれない。だが、今となってはもう無視できなかった。瑛介はそのまま彼女の手首を掴み、まっすぐ彼女の目を見て言った。「信じてくれ。僕は五年前に彼女にはっきりと言ったんだ」二人の子供が顔を上げて、そのやり取りを興味深そうに見つめていた。そして、ひなのがぱちぱちと瞬きをしてから、陽平に尋ねた。「お兄ちゃん、おじさんとママって、前から知り合いだったの?」陽平は口をキュッと結び、ひなのの手を取ってその場から引っ張った。ママの様子を見て、子供が関わるべきではないと悟ったのだろう。弥生は自分の手を見下ろし、それから瑛介を見て、手を振り払った。「それで?私に何の関係がある